2010年12月4日土曜日

今日の雑感013

ウィキリークスに対する攻撃が激しくなっている。

機密情報を暴露された政治側からだけでなく、既存のメディアからの攻撃も顕著だ。

これは、ウィキリークスの暴露が、既存メディアの最大の武器が“情報の恣意的な選択”であったことまでも暴露してしまったからだ。

先日の某朝日新聞のコラムでは、「外交機密はまだしも各国指導者の人物評まで暴露することはないのではないか」といった意味の文が書かれていた。

この一文が何を意味するのか。そう、某朝日新聞は、自分たちが流したいと考える情報のみを流す、つまりは某朝日新聞に掲載される記事は、記者や編成部によって篩を掛けられた、操作された情報であると公言しているのだ。

だがしかし、篩に掛けられて表に出てこなかった情報に本当に価値はないのか?

真に価値のある情報が、意図するしないにかかわらず、闇に葬られている可能性はないのか?

これは某朝日新聞に限らない。すべての既存メディアが発する情報は、そのすべてがメディアの主観によって篩に掛けられているのである。

これに対しウィキリークスは、情報の真偽について裏は取っているものの、持ち込まれた情報はその内容に軽重をつけずに公開し、その内容の評価は受け取る側に委ねられる。

膨大な一次情報がすべて公開されることは、それを読み解くためには受け手に高い情報処理能力を要求することになるが、特定少数による情報の操作は発生しない(もっとも、これにはウィキリークスがすべてを公開していることが保証されていなければならないのだが)。

情報の操作で利益を得てきた既存メディアにとって、その存在そのものに対する危機となるのだ。

先日、尖閣諸島で発生した事件の動画がYOU TUBEに流出したが、既存メディアの対応はその内容の価値ではなく、流出させた海上保安官や所属官庁での情報の取り扱いにへ報道が集中したように思える。

これも、既存メディアが自分たちの篩を通過していない生の(実際は編集されたものであったが)重要情報が公にされたことに対する危機感が噴出したものではないだろうか?

メディアによる世界支配などという中二病めいたことを言うつもりはない。情報処理能力が低い者のためには、それを編集して分かりやすくすることも必要だし、既存メディアはその役割は果たしていると言える。

しかし、政治や事件事故に限らず、その検証を多面的に行うためには、あらゆる階層の人々が操作されていない一次情報に触れられなければならないのだ。

ところが既存メディアは、それを自己の既得権益にしてしまっている。そして、ウィキリークスのようにすべてを明らかにすることはその既得権益を反故にするものであるため、ヒステリックなまでの攻撃が行われるのだ。


※ああ、また殺伐としたものを書いてしまった。明日は気楽に自転車のことでも書こう。

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